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励ましとつながりをバネに、走り続ける - 男山本店(気仙沼) 菅原昭彦 社長
励ましとつながりをバネに、走り続ける - 男山本店(気仙沼) 菅原昭彦 社長

もう、与えることはできないけれど

もろみの搾りを通じて「スイッチ」が入った菅原社長。2本目のもろみを搾った3月24日に、震災後初めて、社員全員に出社してもらったのだと言う。

来れる人だけ来てくれればいいよ、って言ったんですが、家族を亡くした人まで来てくれた。今でも鮮明に覚えていますが、そのときに社員には3つのことを話したんです。1つ目は「朝令暮改を許してくれ」。非常事態なんだから、朝言ったことが昼前に変わることだってあるだろう、と。逆に言うと、自分たちでアンテナを張って動いてほしい、ということなんです。与えられた情報で動くのではなく、それぞれが自分で得た情報で、それぞれの判断で動いてくれ、と。それから「給料を日給月給制にさせてくれ」と言いました。これは、先行きがどうなるかわからない状況で雇用を守るためで、その年の9月には元に戻しました。3つ目、一番強く言ったのは、「みんなに与えるということは、もう私はできない、それでもいいですか」ということ。オーナー会社で、それまでは極端な言い方をすれば、仕事も報酬も指示も、みんな私が与えていた。でももう、そんなことはできない、って、開き直っちゃったんです。簡単に言えば「もう食わせられないよ」ってこと。当時、辞めれば、満額ではないですが収入が補償される制度がありましたから、その道もあるよ、と。でも、全員が残ると言ってくれた。

忘れるために、働き続けた

酒蔵の象徴である煙突が、男山本店と気仙沼の町を見守る

社長に入ったスイッチが、社員たちにも伝わって「新しい男山本店」が生まれた。その日から、社長も社員も、ただ走り続ける日々が続いた。

社員の中には、家をなくした、家族に何人も犠牲があった、という人がいる。その一方で、家も自分も家族も無事だった、という人もいる。我に返るとそういうことって見えてきたりする。だから、とにかく働けるところまで働けって、そう社員に伝えました。5月の連休も働き通し。日曜だけはお休みで。お盆になってはじめて、2日以上の休みを取ってもらいました。あまり気持ちを冷めさせないように、ある意味、冷静にならせないように。その時私が、何を考えていたかと言うと、社員一人ひとり、いろいろあるけれど、唯一の共通点は「仕事が残った」こと。そして、みんなうちで働く、と言ってくれた。みんな仕事でつながっている。だからとにかく、働こう、と。

がんこ杜氏の後継者は、営業マン

震災から1年経過し、ようやく軌道に乗りはじめた男山本店。その時、菅原社長に2度目の試練が訪れた。

震災直後、残った「奇跡のもろみ」を一緒に搾った杜氏。「蒼天伝」の味を完成させてくれた、うちにはなくてはならない人だったのですが、彼が2012年の酒造りを終わって4月に地元に帰る、というときに「もう今年で、俺は酒造りをやめた」って。震災をなんとか乗り切って、私としてはもうしばらくやってもらえるものと思っていましたから、青天の霹靂でした。聞くと「本当は震災の時にやめようと思っていた。1年は復興のためと思って手伝った。でももう70を越えたし無理だ」と。さらに驚くことに、「跡継ぎはもう考えてある」と。なんとそれまで酒造りを本格的にやったこともない、醸造学を学んだこともない40代の営業担当を、後継者に指名したのです。ここ数年は酒造りの手伝いをしていたのですが、どうやらその様子を見て決めたようなのです。私もここでうちも終わるかもしれない、と腹をくくって覚悟を決め、任せてみたんです。そうしたら、その1年目の新米杜氏が、50年のキャリアがあった前の杜氏よりも上の賞を、品評会で次々に取るんです。これにはびっくりしました。

「跡継ぎ」に指名された営業マンであり、現在の男山本店の酒造りを支える杜氏・柏大輔さんは、結果的に新しい男山本店を象徴する人物になった。

営業から杜氏へ転身した柏さん。丁寧な仕事ぶりが光る

震災以降、うちの合言葉は「進化のためには変化を嫌うな」です。たとえば、震災の後、「奇跡のもろみ」のおかげもあって全国に名前を知っていただき、蒼天伝が足りなくなった。で、2011年の夏に酒造りをやろうか、ということになったんです。今まで、夏に仕込みをやったことはない。これを彼らは、何の気負いもなくやってしまうんです。そのために工夫をする。蔵では冷蔵ができるから、それを使おう。米を冷やすのも、冷蔵庫でできる。アイデアがバンバン出る。今まで私の指示を待って動いていた社員が「大丈夫ですよ、社長!」ですから(笑)。営業だってそうです。今まで気仙沼の店しか回っていなかったようなやつが、海外の展示会に1人で行って、現地のお客様に説明している。たぶん、買ってくださるお客様、応援してくださるお客様に、感謝の気持ちを持って酒を届けるのが、自分たちの仕事だ、という意識があるんです。震災はとても不幸なことでしたが、その後に起こったことが、すごくいい経験になっているし、モチベーションを与えられた。私が一番、驚いています。「ここまでやるか、お前ら」という感じです。

「飲み手の顔が見える」酒蔵へ

新しい男山本店を背負って立つ蔵人たち

震災をきっかけに、男山本店は新しく生まれ変わった。社員、地域、飲み手と酒蔵との関係性を見直すきっかけになったと、菅原社長は振り返る。

今回、私たちが思っている以上に、私たちの会社と地域との関係は深いものだ、ということを学びました。震災前から「地酒」を標榜していましたが、震災後、大勢の人とつながって、助けていただくことでここまで来ることができた。同時に私たちが酒を造ることが、地域の人々の励みになるし、実際に多少なりとも地域経済の活性化に貢献している、ということもわかりました。地域に生かされ、育てられてきた酒だという自覚を持って、もっと地域を大事に考えなければいけない。そしてもう一つ見えてきたのは、飲み手であるお客様との関係性です。震災後、全国各地や海外から、心配する声や、励ましの手紙、メールが届いた。震災前は、ともすれば卸や商社に納品しておしまいで、お客様がどんな気持ちでうちの酒を飲んでいるのか、見えていませんでした。震災をきっかけに、お客様ともつながることができた。私たち酒蔵と、社員、地域、飲み手。この関係がものすごく変化をした。これは大きな収穫でした。あの「もろみ」がなかったらどうなっていたか、ですか? たぶん、酒造りは続けていたと思います。でも今のような形ではなかったはずです。あの「もろみ」のおかげで、いろんな「つながり」に気づくことができた。だから私たちの造るお酒は「つながりのお酒」なんです。これからも、飲み手、地域との「つながり」を大切にしながら、日本中、さらには世界中に気仙沼とそこで造られたお酒の魅力を伝え続けていきたいですね。

2本の奇跡のもろみから、全国へ、そして世界へ。人の想いは、つながっていく。

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