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第4回 島は生きている

自らが主役となって

三宅島の南西部、阿古地区。1983年(昭和58年)の雄山の噴火では、溶岩がこの地区に流れ込み、旧阿古小・中学校をのみ込んだ。その傷跡は今もそのまま残っている。かつての校舎の周りは黒い溶岩で埋もれている。溶岩の中に人造の工作物が埋没している様子は、非日常と同居することを強要しているようでもある。

同じような場面は島の至る所にある。例えば、雄山のすそ野に作られた村営牧場。83年の噴火の後、島復興の象徴として土質改良と造営がなされ、牧場のほかレストハウスや展望台が整備された。

しかし今、そこは火山灰で埋め尽くされた荒地と変わり、かつての村営牧舎の牛舎は、二階部分まで火砕流で埋め尽くされている。治山ダム建築のために火砕流を掘ると、埋もれてしまった牛の屍が出てくるという。自然の脅威は音を発することもなく、むき出しのままの姿を見せつけるので、脅威はさらに増幅される。

ただ、圧倒的な現実を前にしながらも、島の復興を悲観的に捉えたくはない。立派な道路や治山ダムはできた。そして、人々の力強い息吹にこそ島の明日がある。

阿古地区の民宿「夕景」を訪ねた。帰島方針が決まり、復旧作業員を迎えるために2004年の11月に店主の沖山勝利さんが、東京に住んでいる妹の武藤泰子さんに手伝ってもらいながら営業を再開した。
「家の中のすべてのものが湿り、ざらざらしていた。とにかく乾そうと、電話機まで天日干しにしたんですよ」と泰子さんは言う。

電話も不通だった。東京には母の喜代子さんを残している。不安だった。復旧作業者のために宿を用意するといっても、東京にいる母が心配だし、やっていけるか自信もない。島に戻って不安になっている時に、三宅島担当の山口甫(はじめ)に道で出会った。泰子さんと山口は幼なじみだ。
「甫君の姿を見つけて、『電話をさ、まずつなげてよ』と言ったの。そうしたら甫君が、『俺がやるよ』と直してくれたんです。最初に電話したのは東京に残した母です。」

この時、偶然、山口に同行していたのが所長の新井孝夫だ。新井は、この一連の様子を見ていつの間にか涙が出てきたという。
「いやぁ、なんのことはないんだ。電話は通じて当たり前だもの。でもね、泰子さんが東京に電話して、『甫君が電話をなおしてくれたの』とお母さんに言って、まわりで自然と拍手が沸いた。グンとこみ上げてきた。遠く離れた人に無事を伝えられる。これが僕らの仕事なんだ、と」

母の喜代子さんが三宅島に戻ってきたのは、島民が帰島してから10日余り経った2月11日。うねりが高く船は往路での接岸を断念、八丈島経由の復路でようやく上陸できたのは竹芝を出発して15時間後だった。

85歳になる喜代子さんは、4年半の東京での避難生活の間に車椅子と杖を頼りにしなければならなくなっていた。避難先で離ればなれになっていた愛犬のロックと竹芝桟橋で再会し、苦手なはずの船に乗り込み生まれて初めてやってきた「東京」を後にしたのだ。
「ロックと一緒に早く島に帰りたかった。東京では本当に皆によくしてもらったし、便利な思いをしました。でも、ずっと"旅の空"でした」。

迎えにきてくれた孫の車に乗り、生まれ育った島を見つめた。こらえていた涙があふれた。あとからあとから涙が込み上げた。「変わってしまって・・・。まわりの緑がこんなになくなって低くなってるなんて思いもしなかった。でも大丈夫、三宅は強いよ。私は知ってる。春になったらまた緑が戻ってくるから。三宅は強いんだから」

島の北部、神着地区にある三宅村中央診療所。島の唯一の医療機関だ。全島避難後は、防災関係者の救急外来のために2年間は神津島から毎日船で通い、2年前に常駐体制に戻した。

今は4年半の空白期間に十分にメンテナンスできなかった設備の改修作業などを急ピッチで進めている。医師1人、看護士1人、スタッフ5人の少人数だが、島民の帰島とともに再び大きな責任を担う。所長の新藤克之医師は、2004年10月に都内港区の病院から異動してきた。入院患者用のベッドに寝、救急外来に備えたという。

そして、再開のためにビジネスホンを設置する作業が急ピッチで進んでいた。「火山ガスと暮らしながらの復興は、思いがけない患者さんを生むことも考えられます。電話は、僕たちにとってはまさに"命綱"ですから、新しいものを入れてもらいました」と新藤医師。

NTT―ME三宅島担当の社員から電話機の詳しい操作方法を聞く。さらに島っ子であるその社員から島の縁戚関係などについて教えてもらった。こんなところにも支え合い、共に復興をめざす人たちの熱意が出る。

新藤医師は、「島民を守るのが僕の仕事です。だから妙な言い方かもしれませんが、防災関係者だけでなく島民の患者さんの顔を見るのが生きがいです」と語る。

三宅村によると、8月頃までに島に戻る予定の島民は約1600人と推測されている。全島避難前の半分だ。しかも若い島民が少なく、ほぼ半数以上が60歳以上となる見通しだ。

島から危険が去ったわけではない。島民がどこにいても、何をしていても迅速・確実に警報などを伝えられる通信手段は欠かせない。通信網の維持は、まさに島民の命に関わる重大事であり、復興の縁の下の力持ちとなる。

道で知り合いとすれ違うたびに、「戻ったんだ。電話はどうなっている?問題ないかい?」と声をかける三宅島担当技術者の姿がある。これを見ると、復興とは、被災者自らが復興の主役として地域の人々に貢献し、そして自らの使命感を取り戻していくことだ、と実感させられる。

通信は単に情報伝達のための手段ではない。人と人、人と社会を結び、一人ひとりの力を形にするのである。その維持は、経済の効率性だけで考えてはならない。NTT東日本/西日本の技術者たちの熱き思いは、これまでも、そしてこれからも変わることがないだろう。

2010年4月現在、三宅島の人口は2700人余り。現在も火山ガスの影響は残るが、地域振興イベント等も実施されて着実に復興が続けられている。

こうした中、民宿「夕景」の雑種犬ロックを主人公にした映画が2011年夏に公開され、話題となった。

1983年の噴火で溶岩に呑まれた学校

火山灰で埋まった牧場とレストハウス

電話がつながった!自然と拍手が沸いた

避難先で離れ離れになっていた愛犬ロックとの再会

生まれ育った三宅島に戻れた喜びをかみしめる喜代子さん

「三宅は強いよ。春になったらまた緑が戻ってくるから」

三宅村中央診療所 新藤医師に新しい電話機を説明する

医療も通信サービスも「島民を守る」という意識は同じ

取材:船木 春仁