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第4回 島は生きている

負けるわけにはいかない

冬の冷たく強い西風が波を起こし、容赦なく岸壁に打ち付ける。波にもまれながらも大型船はゆっくりと接岸し、タラップがかけられた。

2005年2月2日午前5時すぎ、三宅島三池(みいけ)港。4年5カ月の長きにわたり全島避難を続けてきた東京都三宅村の島民62人が帰島第一陣として島に戻ってきた。先行して帰島していた商工関係者や復旧作業員らの拍手に出迎えられた島民の中には涙をぬぐう人もいる。

送迎バスに乗り込み、それぞれの自宅に向かう頃、薄明かりで島内の姿が浮かび上がってきた。火山ガス(二酸化硫黄)で白く立ち枯れたままの木々、潮風でボディがぼろぼろに錆びている放置自動車、鳥居の上部だけを残して埋もれてしまった神社。

全島避難指示は1日午後3時に解除された。しかし、火山ガス濃度が基準値を超え、発令された警報や注意報は翌朝までに8回もあった。島の約半分への立ち入りは規制され、ガスマスクの携帯が義務づけられた帰島生活である。「火山ガスとの共生」。かつてない過酷な状況の中で復興と生活の立て直しを図らなければならない。

「三宅島における災害の歴史といえば噴火災害の一語に尽きる」。1981年(昭和56年)に発行された『伊豆諸島東京移管百年史』にある「第6節 災害」は、こう書き出している。

富士火山帯は、北端の新潟県西部から伊豆諸島、小笠原諸島を経てマリアナ群島にまで達する一大火山帯である。これに連なる島々は火山帯の海底火山の山頂部が海面に出ている状態であるといわれる。三宅島には海抜814メートルの雄山があり、全島が一山からなる。山腹や海岸には100カ所近い旧火口があり、島がいかに噴火と戦ってきたかを物語っている。
『百年史』によれば、文書に残る最古の噴火は1085年(応徳2年、平安時代)。1643年(寛英20年、江戸時代)の噴火記録には次のように記されている。
「雄山より噴火す、二月十二日酉の刻、大雨降り出し大地震動し山中より神火を発し、阿古村在家、一軒も残らず焼失す、それより海の方へ十町許(ばか)り焼出す、坪田村は焼石おびただしく降り人家を埋めたれば人の出入りなり難く其の上作物も絶えたり」

その後も雄山は20年から70年程度の間隔で噴火を繰り返す。ここ4回は、1940年、62年、83年、そして2000年と、20年前後の周期でおきている。噴火を複数回経験した島民も少なくなく、被災を乗り越えてきたのである。しかし、2000年9月からの4年5カ月におよぶ全島避難は、三宅島の災害の歴史に特記されるべき苦難であった。

「ゼロからのスタートではない。マイナスからのスタートなんです」。三宅島村神着地区で食料品店「利八屋」を営む浅沼基(もとい)さん(三宅村商工会会長)は、こう語って唇を噛んだ。降灰と泥流で多くの土地が埋まり、火山ガスも絶えない。そこでの生活や島の建て直しは、未開の荒野を開拓するよりも難しいのだ。
「三宅島は何度も噴火による被害を受けてきたが、わたしたちは負けてこなかったし、負けるわけにはいかない。それが島の歴史であり、わたしたちの意地でもあるのです」

浅沼さんは当初、全島避難は1〜2カ月で解除されると思っていた。しかし避難解除の目途がたたず、ついに4年5カ月の長きに及んだ。浅沼さんも商工会の仲間たちも本土でアルバイトをしながら帰島の日を待ったという。帰島する人たちのために先入りして店を再開したのが避難解除の10日余前。思うように物資が届かず、店内の棚はまだ半分も埋まっていなかった。

しかし、2月2日に帰島した島民たちが店に顔を出すと、「おお、帰ってきたかい。要る物があったら言ってくれよ」と嬉しそうに話す。そして東京に残っている妻に電話し、「台車を二つ仕入れて船に乗せてよ」などと注文を出す。島民の帰島の状況を見ながら生鮮品などの品揃えも徐々に増やしていくつもりだ。
「これがしっかりしているからね。これからは昔のように卸問屋とのやりとりも増えるよ」と電話を指さした。

島は生きている。そして、日毎に以前の活気を取り戻してきている。一方、4年5ケ月の間、全島民の避難した島の中で通信網はその役目を果たしながら静かに、確かに生きていた。三宅島の通信網を守ってきたNTTの技術者たちの長く、厳しい闘いを報告する。

2月2日午前5時すぎ。帰島第一陣が三宅島に到着

4年半待った帰島がついにかなった

2000年7月8日、雄山が噴火

「負けるわけにはいかない」食料品店「利八屋」を営む浅沼 基三宅村商工会長

東京に仕入れの電話をする浅沼さん。少しずつだが着実に活気が戻ってきている

三宅島は復興に向けて歩み始めた(阿古地区の夜明け)

取材:船木 春仁