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会津若松市「若松城(鶴ヶ城)」

若松城と鶴ヶ城

昭和9年(1934年)、鶴ヶ城が国の史跡に指定され当時の文部省は、所在地名を登録名としました。このために城跡としての鶴ヶ城は「若松城跡」と登録されました。
一般的には「鶴ヶ城」が有名ですが、古い文献などでは「会津城」と書かれていることも多いようです。

若松城と天守閣

若松城天守閣

若松城天守閣

若松城は、築城から620年余りの間、多くの会津城主によって治められました。

至徳元年(1384年)、葦名直盛が東黒川館を作ったのが始まりで、その後黒川城として城下が成立しました。
文禄2年(1593年)、蒲生氏郷が7層の黒い天守閣を築城し鶴ヶ城と命名。地名も黒川を若松に改め町割りを作りました。
寛永16年(1639年)、加藤明成のときに現在と同じ白い5層の天守閣への改装が完了しましたが、幕末の戊辰戦争後、明治7年(1874年)に政府の命令により取り壊されました。
昭和40年(1965年)に再建され、平成13年(2001年)には干飯櫓と南走長屋が江戸時代の工法・技術を用いて復元されました。
そして平成23年(2011年)には、赤瓦へのふき替えが完了し、幕末当時の姿が再現されました。

若松城と赤瓦

赤瓦がふかれた鉄門・走長屋・天守閣

赤瓦がふかれた鉄門・走長屋・天守閣

赤瓦がふかれた干飯櫓と南走長屋

赤瓦がふかれた干飯櫓と南走長屋

蒲生氏郷が黒色の天守閣を築いた当時は、瓦も全て黒っぽい「いぶし瓦」だったと考えられています。いぶし瓦は関西地方で作られたもので、東北地方では冬の寒さに凍み割れてしまうことから対策が求められていました。
これを改善したのが保科正之の時代に改良された赤瓦でした。検証の末、ある程度凍み割れが防げることがわかり、城内の屋根瓦は徐々にこの赤瓦に取り替えられていったようです。
天守閣の再建は取り壊し直前に撮影された写真をもとにしており、当時はすべて赤瓦だったことが払い下げられた瓦などから判明しているため、その姿に近づける目的で、平成13年完成の干飯櫓・南走長屋、平成23年完成の天守閣ともに屋根には赤瓦がふかれました。 黒瓦と赤瓦

黒瓦と赤瓦

体験型のお城ミュージアム、天守閣

天守閣入り口

 

天守閣入り口

塩蔵

海を持たない会津にとって塩は貴重品であり、若松城の天守台内部には、籠城時の蓄えの塩を備蓄する「塩蔵」が設けられていました。ここでは塩蔵の様子を再現しています。

塩蔵

一層から四層

江戸時代、幕末などの貴重な資料やパネルなどを展示しています。
江戸時代の会津の展示

江戸時代の会津の展示

日本刀と火縄銃

日本刀と火縄銃

江戸時代の酒造り

江戸時代の酒造り

本丸御殿絵図

本丸御殿絵図

五層

若松城天守閣

展望台から見た本丸

最上階である五層は、城下を眺める殿様気分が味わえる、展望台のフロアです。本丸内はもちろん、会津市街地や、飯盛山・磐梯山をはじめとした会津を取り囲む山々も眺めることができます。

若松城天守閣

展望台から見た市街地

南走長屋と干飯櫓

平成13年に復元作業が完了した南走長屋と干飯櫓は、発掘調査、資料調査に基づいて設計され、当時の技術を用いて復元された建造物です。

南走長屋

南走長屋

南走長屋

南走長屋は表門(鉄門)から続いており、帯郭と本丸を隔てる重要な位置にあります。表門を守り、体郭から本丸への敵の侵入を防ぐ要となっていたと思われます。

中には当時を再現する武器などが展示されています。

干飯櫓

干飯櫓

干飯櫓は城内にあった11の櫓のうち、一番規模の大きかった櫓で、文字通り食糧庫であったと考えられています。
「干飯」は当時の保存食の一つで、水やお湯で戻してすぐに食べることができたので、特に戦が起きた時などは兵士たちの食料として重要なものでした。 干飯櫓の位置からも、干飯はいざという時の蓄えであったと思われます。

お問い合わせ

所在地:福島県会津若松市追手町1-1 [地図]
問い合わせ:財団法人 会津若松市観光公社 TEL.0242-27-4005