支店ホーム > ふらっとおでかけ 福島ぶらり >会津若松市「若松城(鶴ヶ城)」
北出丸から本丸に通じる大手門のこと。多聞櫓と呼ばれた櫓が建てられ、藩主の登城や非常事態やその他の合図に使用する胴の直径1.8メートルの大太鼓を備えていたことから、太鼓門と呼ばれていました。
このV字型の武者走りは全国的に見ても珍しく、若松城の特色の一つでもあります。
大手門となる太鼓門の渡り櫓などへ簡単に昇り降りができるように作られています。
天守台の石垣は主に、自然石を加工せずにそのまま積む「野面積み」と呼ばれる仕法で作られています。
積み方に工夫がされており、大変丈夫です。
帯郭から本丸へと通じる表門。扉や柱が鉄で包まれていたことから鉄門(くろがねもん)の名がつけられました。
門の石垣の仕法は「切込みハギ」と呼ばれ代表的な遺構の一つです。
御殿などがあった場所です。
現在は中心に芝生が植えられ、市民、観光客の憩いの場となっています。
本丸南側土手側に藩主が馬術を稽古するための馬場がありました。
後ろに見える井戸からこの石に水を汲み、馬の口洗いのために用いたと伝えられています。
石垣をよく見るとジグザグになっている部分が見られます。これを「横矢がかり」といいます。敵を側面から攻撃するための工夫でした。
月見櫓は二重の櫓で、物見櫓として横矢がかりとして重要な位置にあり、 中には常に武器が収められていました。城内の月見の場所としては絶好の櫓でもあったことから、この名がつけられました。
月見櫓
茶壷櫓は二重の櫓で、中には重要な茶器類や武器が収められていました。本丸の旧大手に通じる廊下橋の横矢がかりとしても重要な櫓でした。
茶壷櫓
茶壷櫓から廊下橋方向に石垣を見ることができます。この石垣は、20メートルを超える高さで美しい扇の勾配をなしており、「忍者落とし」と呼ばれています。
廊下橋は二ノ丸から本丸へ渡る橋です。
加藤明成の大改修まではここが大手口でした。
葦名時代には屋根のついた廊下造りだったので、廊下橋と呼ばれました。
「荒城の月」が若松城と青葉城をモチーフに作詞されたことは、昭和21年の土井晩翠氏を招いた講演会で明らかとなりました。学生時代に荒廃した若松城を訪れ、「荒城の月」作詞のきっかけを得たといわれます。
この詩碑には、晩翠氏直筆による荒城の月の1番から4番までの歌詞が記されています。
幕末、国家老として内政の責任を担っていた萱野権兵衛長修は、戊辰戦争では先頭に立って激務にあたり、敗戦後も城明け渡しや藩主父子の助命嘆願に力を尽くしました。結果、藩主は死を許されましたが、戦争責任が萱野権兵衛らにあるとされ、罪を一身に背負い切腹しました。
この碑は、昭和9年、有志の手によって建立されました。
時守を置いて昼夜時刻を城に報じていた堂で、鐘の響きは江戸流でした。
戊辰の役(1868年)には、ここに西軍の砲火が集中し、時守が相次いででたおれたにもかかわらず、開城の最後まで正確に時を報じ、味方の士気を高めました。
お問い合わせ
所在地:福島県会津若松市追手町1-1 [地図]
問い合わせ:財団法人 会津若松市観光公社 TEL.0242-27-4005