支店ホーム > ふくしま人 > 会社社長 遠藤義之


会社社長 遠藤義之

遠藤義之

“食”を通し人と人を繋いで創る新しい“ふるさと富岡”の再生

 双葉郡富岡町は、2011年3月11日の東日本大震災と、その直後に起きた原発事故から5年目を迎えました。除染活動が本格的に始まった現在もさまざまな問題を抱え、専門家や町民が意見を交わし復興計画の策定が進められています。
 2014年7月、富岡町役場郡山事務所において、現状の問題点や今後の町の方向性などの意見を交わす富岡町災害復興計画(第二次)検討委員会が開かれ、「震災から生き残り、生かされた人間として、『食』を通して人と人とを繋ぎ、育てて貰った富岡町に恩返しをしたい」と、公募町民の一人として参加されたのが、今回「ふくしま人」にご登場頂いた、富岡町の遠藤義之(えんどうよしゆき)さんです。
 遠藤さんは双葉郡富岡町の生まれで、高校を卒業後、東京の広告専門学校を経て、広告代理店に就職しました。25才の時に富岡町の第三セクター施設の開設準備室の一人として参画するため、奥様と共にふる里の富岡町に戻りました。その後、富岡川を見下ろす高台に建つホテル観陽亭の支配人として迎えられ、着任後は従業員と一丸となって仕事に励みました。そして、次年度へ向けて庭の整備やホールの拡張工事を進めている時に東日本大震災に遭遇しました。
 「震災当時は富岡町内に出掛けており、車の中で地震を体験しました。なんとか観陽亭に戻り、従業員の無事を確認しました。週末で沢山の予約を頂いておりましたが、津波の防災無線も出ていたので、従業員の安全を考え、全員帰宅させました。シャンデリアが天井から落ち、壁が崩れ落ちて館内は本当に酷い状況でしたが、記録に残さなければと思い写真を撮っていました。しかし、余震が酷く、一人でいることが怖くなり、思わず外に出ました。その時、川の水が増水して船がどんどん上に押し上げられていました。富岡川を見ていた役場職員の所へ行き、増水して沿岸の家々を飲み込んでいく様を声を上げることもできずに見ていました。何分位そうしていたのか分かりませんが、今度は海へ向って水が引き始めました。富岡川に架かる橋の上から見ていた人が『高波来っから逃げろ!』と言っていましたが、何のことか最初ピンときませんでした。何回も言われている内にハッと我に返り、津波が来ることに気が付きました。そして急いで車に乗り込み、娘がいる幼稚園と小学校へ向かいました。」
 遠藤さんが二人のお子さんを迎えに行き、再び戻って来ると、海抜約15メートルの高台にある観陽亭の1階は津波に襲われ、信じられない光景が目の前に広がっていました。隣町で働いている奥様とは連絡が取れずにいましたが、深夜になってようやく無事が確認できたことから、国道6号線の陥没で帰宅できずに避難していたコミュニティセンターへ迎えに行きました。余震が酷く全域が停電していたこともあり、ご家族は帰宅をあきらめ、エンジンを掛けたまま車の中で朝を迎えました。
 「12日の朝方、原子力発電所の有事を想定した避難指示が防災無線で流れたため、川内村への非難を余儀なくされました。川内村へ向かう道路は大渋滞で全く動かなかったため、また、親戚が一緒に動き、妊娠している身内もいたことから、私たちは思い切って郡山へ向かうことにしました。翌13日の夜に群馬の従兄弟がガソリンを持って来てくれたので、14日の朝に掛けて群馬の伊勢崎市へ移動しました。そしてその足で伊勢崎市役所へ駆け込み、受け入れをお願いし、翌15日に用意して頂いた3世帯分の市営住宅に落ち着きました。」
 遠藤さんのご家族が奥様のご実家がある東京都多摩市へ移動すると、事故直後から心配していたという観陽亭のなじみのお客様から救援物資や支援物資が次々と届けられました。遠藤さんは関東圏に避難した友人らと、富岡町や川内村などから郡山ビックパレットへ避難した約3,000人の避難者のために、18日夕方から東北道を使って物資を運びました。他にもマイクロバスで避難者の入浴のために磐梯熱海温泉へ送迎するなど、1週間ごとに東京と郡山を行き来していたと話します。
  「ボランティアを通し、役場のスタッフが必死になって、 フラフラになりながら頑張っている姿を見て、“生かされた者が、自分の足で歩かなくてはいけない、自立しなければいけない”と思いました。その時に“なんとか従業員を集めて会社を立ち上げよう”と決意しました。」