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白河市「戊辰と白河」

会津藩戦死墓と会津藩銷魂碑会津藩戦死墓と会津藩銷魂碑

 黒船が来航して江戸幕府が鎖国を解いた幕末の激動の時期、1868年1月京都郊外で起こった「鳥羽伏見(とばふしみ)の戦い」を切っ掛けに、尊王攘夷を掲げる新政府軍(西軍)と、大政奉還後に天皇親政を目指す旧幕府軍(東軍)との間で戊辰戦争が始まりました。近代化した兵装の新政府軍によって3月に江戸城が明け渡された後も、関東各所での小競り合いを経て東北地方へと戦いの場を移していきました。
 尊王攘夷が横行していた京都の治安維持のため、幕府から京都守護職を命じられていた会津藩は西軍の恨みを一身に受けました。度重なる会津赦免嘆願の拒絶などから、奥州・出羽・越後の諸藩が奥羽越列藩同盟を結んで対峙。会津藩・仙台藩らを中心に藩主不在の小峰城に集結し、奥州街道の要とされる白河を戦場に、北上する西軍と激突しました。
 白河口総督として会津藩家老西郷頼母(さいごうたのも)らが小峰城に入城し、仙台藩、棚倉藩、二本松藩の部隊も加わり、東軍約2,500人が結集。西軍も増員して約700人となり、両軍合わせて約3,200人が白河口に集結しました。
 5月1日、西軍は3隊に分かれて小峰城に進攻を開始。本隊は奥州街道を進んで小丸山を占拠して大砲4門を据え、正面の稲荷山に陣地を構える東軍を攻めるかに見せかけ、左右から迂回して手薄になった雷神山と立石山を占拠します。近代兵装に勝る西軍は稲荷山を周囲から包囲する形で激しく銃撃を加え、さらに城下へと突入し小峰城を占拠しました。
 小峰城陥落は東軍に深刻な衝撃をもたらし、その後も小峰城を包囲した激しい戦闘が繰り広げられましたが、およそ100日間にわたる激戦は7月28日に終わりを迎えます。「白河口の戦い」の戦死者は、東軍927人、西軍113人にのぼりました。(記録により諸説有り)
 白河の人々は戦火に遭いながらも敵味方を問わず遺棄された戦死者を手厚く忌って慰霊碑を建立。現在に至るまで変わらずに慰霊祭が続けられています。

長州・大垣藩戦死六人之墓長州・大垣藩戦死六人之墓

 会津藩戦死墓と会津銷魂碑の一角から道路を挟んだ向かい側には、長州藩と大垣藩の将兵6名が葬られた西軍藩士の墓が建立されています。市内には哀悼の気持ちを表した両軍合わせて30ほどの碑が残り、今も香華を手向けています。

稲荷山頂上稲荷山頂上

 白河口の激戦地となった奥州街道の関門にあたる要所の稲荷山。東軍の白河口総督を務めた会津藩家老西郷頼母(さいごうたのも)の歌碑が建つ稲荷山頂上からは、薩摩藩の伊地知正治(いじちまさはる)が率いる西軍が布陣した小丸山方面が一望できます。西軍は大砲4門を小丸山に据えて激しく発砲し、火力と統率力の差により東軍は白河戦最大の約700名の死傷者を出したといわれています。

脇本陣「柳屋旅館」跡脇本陣「柳屋旅館」跡

 白河本町の脇本陣柳屋旅館は、戊辰戦争の「白河口の戦い」に参戦した新撰組斎藤一(さいとうはじめ)隊長率いる隊士106名が宿営したところで、最大の激戦となった5月1日も、ここから出陣しました。奥まったところの蔵座敷は、1881年の明治天皇東北巡幸の際に天皇の宿泊所となり、「玉座」と呼ばれる違い棚や書院などを備えた床の間と座敷があり、蔵の裏にはつるべ井戸(御膳水跡)が残されています。

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