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飯舘村民物書き 小林麻里

小林麻里

喪失の悲しみの迷路を照らした飯舘の森とそこに宿る光

 農業に適した四季折々の気候風土に恵まれた日本は、水や土、空気や木、生きものなど、特に地方に行くほど豊かな自然という資源に恵まれ、地域の特性に合わせた様々な作物が作られています。そんな中、人口減少による地方の山間部の高齢化、過疎化、米の減反政策などにより、休耕田や耕作放棄地が増加し、人口減に悩む自治体では、就農や農体験を希望するUIターン希望者に対し、農地や住宅の斡旋、資金などへの様々な支援や助成制度を設け、定住者の誘致や交流に取り組んでいます。
 また、経済や環境、社会のそれぞれの面で持続可能な社会が求められる今日、環境を壊すことなく毎日の食料消費を支える「持続可能な農業」のひとつとして、2006年(平成18年)に「有機農業推進法」が施行され、消費者の環境や安全な食品への関心を背景に、福島県でも生産者の有機農業への転換や、有機・自然農業を志向するUIターン者などの就農が進んだものの、2011年(平成23年)の震災後に起きた原発事故の放射能汚染により、安全を最も厳しく追求してきた有機農業生産者らは、土壌検査で農作物への放射能移行が非常に少ないことが分かったものの、基準値以下でもゼロではないとの風評被害により、既に新しい農地を求めて県外に移住した生産者もおり、約2年半を経た現在も厳しい経営状況が続いています。
 今回「ふくしま人」へご登場を頂いたのは、2004年(平成16年)に結婚を機に名古屋から飯舘村へ移住され、自然農業に基づいた自然卵養鶏を生業としていたご主人を癌で亡くされた後も、移住者の友人らの協力を得ながら、原発事故で福島市飯野町へ避難するまで飯舘村で農的生活を送り、2012年(平成24年)5月、『福島、飯舘 それでも世界は美しい ー原発避難の悲しみを生きてー 』を出版された、小林麻里(こばやしまり)さん。2012年の「避難区域再編」で「居住制限区域※1」に指定された飯舘村のご自宅をお訪ねし、これまでの飯舘村での暮らしぶりからお話しをお聞きしました。
 「私は名古屋出身で2004年に結婚を機に飯舘村に来ました。今年で9年になります。主人も東京出身で2000年(平成12年)に脱サラし、『農業をやりたい、百姓になる』という夢を持ってこの土地へ移住し、主に平飼いの自然卵養鶏を生業にしていました。私は名古屋で友人の会社でオーガニックな洗剤などを扱う仕事をやっていましたが、都会で生きることに疲れてきて、自然の中で暮らしたいという思いが序々に高まっていた時に、たまたま友人の紹介で主人に出会い飯舘に来ました。それまで東北には一歩も足を踏み入れたことがなく、福島というより、飯舘の森の中にピンポイントで来たという感じでした。私は都会生まれの都会育ちで、田舎というものを全く知らない人間でしたが、ここに来て畑や田圃の仕事や山菜を採って食べることなどを覚え、これが自分がしたかった生活なんだなと、自然の中で暮らすことを満喫していました。」
 冬はマイナス15〜20℃になる飯舘村の生活にも序々に慣れてきた頃、小林さんは結婚して3年弱の2007年(平成19年)3月、突然のようにご主人を癌で亡くされ、その後、飯舘村の深い森の中に一人取り残された4年間を送ります。
 「亡くなる前年の12月に体調を崩し、年明けに吐き気が酷くなり、南相馬の市立病院で末期の癌だと診断され、分かった時には治療する手立てもなく、県立医大に入院しても、あと何ヶ月という話しだけでした。主人は45歳で、私も主人もまさか亡くなるとは思っておらず、絶対そんなことは有り得ない、奇跡が必ず起こると信じて家に帰ることを選択しました。最後はここに帰ることが主人の願いでしたので、今考えてみると末期の人を連れて帰るのは無謀だったんですが、あの時は信じられないような力が出て、彼をとにかく連れて帰りました。福島から在宅ホスピスの先生がこんな山奥なのに通って下さることになり、最期9日間でしたけど、彼は『ここは天国だ』と何回も呟いて、ここから静かに旅立って逝きました。その瞬間からこの場所は、私にとって彼の魂が宿る場所になったんですね。」
 周りに身寄りもない森の中に残された小林さんは、ご主人の入院中に自家用の10羽を残して200羽以上の鶏を自然卵養鶏の仲間に引き取って貰い、愛犬と愛猫と鶏たちの面倒を見ながらなんとか生き抜きました。名古屋へ帰る選択肢が有ったものの、金縛りに遭ったように動けなくなり、犬の散歩のために朝起きて森の中を歩き回っていると、『生きるんだよ』と何度もご主人の声が聞こえ、喪失の苦しみの日々にも容赦なく飯舘の冬の厳しさが訪れ、生命を脅かすほどの寒さの中で薪ストーブを燃やして暮らしていると、次第に生きる喜びのようなものが湧いてきたと話します。
 「森の中に居ると、死にたいという気持ちとは別に、春が来ると花が咲いて、飯舘の森の力に癒やされ、どうやって生きていたのか憶えていないんですが、私はなんとか生き延びて、2年目の時に知人がやっていた地域通貨※2『どうもない』に入会し、私は料理が得意なので、薪割りや草刈りをして貰ったら料理を出すというやり取りをしながら、この場所を彼の夢の残骸にしたくないという想いで、必死に頑張ってきました。」
 小林さんは畑や田圃の作業を飯舘村や近隣の市町村に住む移住者仲間の協力を得て徐々に再開し、飯舘の森の自然の力に癒やされながら、また生きることへの喜びを見出し始めたその後を引き続きお聞きしました。

※1居住制限区域:2011年の東京電力福島第1原発事故で全村を計画的避難区域に指定していた飯舘村を、政府は2012年7月17日午前0時に、「帰還困難」「居住制限」「避難指示解除準備」の3区域に再編。居住制限区域は飯舘村の大部分を占め、放射線の年間積算線量が20ミリシーベルトを超えるおそれがあり、住民の被曝放射線量を低減する観点から、引き続き避難の継続を求める地域。除染を計画的に実施して基盤施設を復旧し、地域社会の再建を目指す地域。
※2地域通貨:特定の地域やコミュニティーの中だけで限定して使用する通貨。誰もができることに対価を発生させ、主に時間単位の労働が購入でき、地域やコミュニティーの人が互いに力を貸し合って助け合う。海外の多くの国で使われ、日本の結(ゆい)に近い、助け合いを日常的にした通貨。