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会津本郷焼窯元 宗像利浩

宗像利浩

現代における麁相の美を求めて

 会津盆地を流れる阿賀川に沿って、平坦部に細長く突き出した中世の山城跡が残る白鳳三山(観音山・羽黒山・岩崎山(向羽黒山))の麓、会津本郷。人口約6,700人ほどのこの地域は、今から400年程前の会津藩主蒲生氏郷(がもううじさと)治世の頃、若松城の城郭改修のために播磨国(はりまのくに=兵庫県)から瓦工を招き、本郷村から発見された原土を使い、屋根瓦(黒瓦)を焼かせたことが東北最古の陶産地「会津本郷焼」起源の地といわれています。
 陶器の生産が実際に始まったのは江戸時代になってからのことで、藩主保科正之(ほしなまさゆき)により、尾張国(おわりのくに)瀬戸出身の陶工を扶持を与えて招き、城内の用度品や茶碗、水差などが焼かれ、すでにこの時期に茶器が完成されたといわれています。また、1770年(明和7年)頃、良質な磁器原土が同地域から発見され、藩は江戸から磁器の陶師を招き、また陶工自らが他国の窯業地で焼成法を学ぶなど、以来400余年に渡って様々な変遷を重ねながら、土物(陶器)と石物(磁器)両方を生産する東北最古を誇る窯場として現在に至っています。
 今回「ふくしま人」へご登場を頂いたのは、会津本郷で江戸時代(1729年=享保14年)から続く「宗像窯(むなかたがま)」の8代目当主、宗像利浩(むなかたとしひろ)さん。宗像さんはご自身の名に因んで命名した代表作「利鉢(としばち)」で、1997年(平成9年)の第14回日本陶芸展で日本陶芸展賞を受賞し、2003年(平成15年)には文部科学大臣賞を受賞するなど、8代目を継承された2005年(平成17年)以降も、会津本郷焼を代表する陶芸家として、各地の著名な美術館での招待出品や収蔵、また国内はもとよりフランス パリでの個展開催など、その活躍はテレビ・新聞などのメディアでも度々取上げられています。室内が整然と整頓された3台のろくろが並ぶ成形場をお訪ねし、まず宗像窯の歴史と作陶の世界から見る「五感で物を観ること」についてお話しをお聞きしました。
 「宗像窯の先祖は、元々は九州福岡の宗像大社(むなかたたいしゃ)から神主として布教のために会津に来ました。奈良時代の767年(神護景雲4年)といわれています。それから1000年程は布教活動が主で、後に焼物も平行して作るようになり、焼物が専業になったのは江戸時代になってからのことで、私で8代目になります。高度成長期から物が溢れ、壊れたらまた取り替えれば済み、今は五感ではなく、視覚で観ることが多くなった気がします。器を持って食べる文化は、世界で日本にしか残っていませんが、器は見た目で重く感じても、持ってみると軽く感じたり、触った感覚がなめらかだったり、使ってみて違う気付きがあり、美を秘めた本質の良いものは五感に訴える力があり、いい使い手に出会うと、良さが引き出されて育っていくのだと思います。抹茶碗というと美術品のイメージがありますが、国宝8点の内7点は無名の工人が作り、6点が中国・朝鮮のものです。国内で作られたふたつの内ひとつは美濃の陶工によって作られ、作者は分かりません。そしてもうひとつが本阿弥光悦です。光悦は書家で刀剣の鑑定をしましたが、陶工としての技術を積むというより本質を見る目があり、どういう狙いで作られた物が大事なのかを分かっていて、美術品ではあっても“使うもの”なのです。使って初めて凄さが見えてくる、日常の延長線上に“美”が潜んでいるのだと思います。」
 焼き上がりの段階ではどんなに優れたものでも本質を見せてはくれず、本質を秘めた作品は、優れた使い手によって長い間大切に使われることで名品となり、本物は一見平凡に見え、そこに本質を見抜く目が要求されると宗像さんは話します。引き続き2011年(平成23年)の震災で倒壊した、江戸時代に造られた登り窯の再生プロジェクトについてお話しをお聞きしました。

※麁相の美(そそうのび):表面飾らず内面を充実させる。