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会津若松市 新島八重と会津女性たちの足跡(西郷千重子、中野竹子)

なよたけの碑

「なよ竹の 風にまかする身ながらも たわまぬ節の 在りとこそきけ」西郷千重子

なよたけの碑と歌碑、聖観音菩薩像の写真戊辰の役で藩に殉じた女性は数多く、この碑には名前が解っている233名の女性の名が刻まれています。
その偉業を留め、霊を慰める碑です

 会津藩家老・西郷頼母の妻・西郷千重子が詠んだ短歌です。
 「弱いなよ竹と同じように風に吹かれてしまう身だけれど、強風にも曲げられない、なよ竹の節のように、私も節義に殉じてみせる」という強い意志と覚悟がこめられていると解釈されるそうです。

 1868年8月23日、西軍(新政府軍)が会津の城下へ入ったことを伝えられました。西郷千重子は夫・西郷頼母が城へ向かった後にこの歌を詠んだとされています。
その日、邸では21名の女性たちが自刃します。ほかにも、大軍に立ち向かった会津の女性たちは多く、抗戦・奮戦による戦死がありました。主君に殉じ、藩の名や家の名を汚さないために、自刃し命を捧げた藩士の老婦人・妻女・幼女たちがありました。

 名前の解る233名を供養する碑が建てられ千重子の辞世の句から「なよたけの碑」と名付けられました。また、平成15年5月には、聖観音菩薩像が建立されています。

二十一人之墓

二十一人の墓の写真武家の家人としての覚悟が導いた悲劇に
多くの逸話も残されています

 戦いの足手まといとならないよう、敵に捕らえられて主の名をけがさないよう、生きるよりも死を選んだ頼母の母・律子、妻・千重子など家族9人と一族12人が西郷邸で互いに刺し違えて自刃し果てたのでした。遺体はここに埋葬され、戊辰の役の悲劇が今もしのばれています。

西郷頼母夫妻 墓所

西郷頼母夫妻墓所の写真保科八握髯翁墓 室飯沼千重子位と刻まれた墓碑

 西郷家は藩祖・保科正之から分家した家柄で、西郷頼母夫妻の墓は生前から保科家歴代の墓所である善龍寺に用意されました。西郷頼母近悳(ちかのり)は、明治36年(1903年)、73歳で病気により会津若松市で亡くなります。戊辰戦争後に姓を保科に改め、教職や神職などに就きました。先祖よりも小さい墓石に、晩年に用いた号「八握髯翁」の文字が刻まれています。

祥雲山 善龍寺(しょううんざん ぜんりゅうじ)の山門

祥雲山 善龍寺(しょううんざん ぜんりゅうじ)の山門の写真竜宮造りと呼ばれる寛政九年(1797年)建立の山門

 境内の案内標によれば「祥雲山善龍寺は寛永20年(1643年)曹洞一派の「泉海」という僧が藩祖・保科正之に従い花畑に建立、その後現在地に移った。本堂は戊辰戦争で戦火にあい焼失し、山門は寛文年中に建造され今もその面影を残している」とあります。
 焼失をまぬかれた山門は、市指定文化財 第92号建造物(平成13年1月23日指定)となっています。寛政九年(1797年)の建立とされ、竜宮門あるいは竜宮造りと呼ばれる珍しい様式であり、当地方では、ほとんど例を見ない山門。楼上に、高欄が巡らされ、朱塗りの痕跡がわずかに残り、内部に「西国二十三観音」が安置されています。入母屋銅板葺、二重軒、扇垂木造りといい、建立以来200余年を経て、建立当時の原形を良くとどめているとされています。

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祥雲山 善龍寺(しょううんざん ぜんりゅうじ)
住所:会津若松市北青木13-33【地図
電話:0242-26-3022

問い合わせ先
会津若松市馬場町1-18 チャレンジショップYui結 2階
会津若松市「八重の桜」プロジェクト協議会
電話:0242-23-8864

西郷頼母邸跡の碑

西郷頼母邸跡の碑の写真碑には「戊辰殉節 西郷邸阯 子爵 松平伴男題」との文字がある

 西郷家は藩祖・保科正之から分家した家柄で、代々筆頭家老を務める名門でした。
 邸は会津鶴ヶ城の北出丸から近いところにあり、信頼の高い重臣であることを感じさせます。この碑は、国家老の邸宅があったこと、まさに老母・妻・妹・娘をはじめとする21名の女性が殉節を選んだ場所であることを伝えます。

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住所
会津若松市追手5【地図

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会津若松市馬場町1-18 チャレンジショップYui結 2階
会津若松市「八重の桜」プロジェクト協議会
電話:0242-23-8864

中野竹子殉節の碑・竹子像

「もののふの、猛き心にくらぶれば 数に入らぬ 我が身ながらも」中野竹子

中野竹子殉節の碑の写真この一帯で長州藩・大垣藩の兵士と激しい戦いがありました

 中野竹子は、1868年8月25日、城下に迫る長州藩・大垣藩の兵士と遭遇し、銃撃により戦死をとげましたが、竹子の薙刀には決意の強さをあらわすこの辞世の句を刻んだ短冊が結びつけられていたとされています。

中野竹子像の写真中野姉妹のほか女性たちで隊をつくり
迎え撃ちました

 8月23日、やはり西軍(新政府軍)の城下への侵攻を知り、中野竹子・優子の姉妹を中心とした婦女子隊は、松平容保の姉・照姫を守らなくてはと城へ入ろうとしました。そこで姫は坂下へ向かったと聞いたため坂下へ向かいました。しかし誤報と知って引き返すところで藩の軍に出会います。自分たち女性の従軍を願い入れ、許されたのは8月25日のことでした。黒髪を断ち、薙刀をかかえ隊に加わりました。長州藩・大垣藩の兵士と、激しい戦いが展開されたのがこの碑の辺りです。敵の銃に薙刀で戦い、銃撃により戦死をとげました。

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住所
会津若松市神指町黒川街道西261【地図

問い合わせ先
会津若松市馬場町1-18 チャレンジショップYui結 2階
会津若松市「八重の桜」プロジェクト協議会
電話:0242-23-8864

雑物蔵の壁に

「明日の夜は 何国の誰か ながむらん なれし御城に 残す月影」新島 八重

 1868年9月22日、会津藩は政府軍に降伏しました。
 8月23日より約1カ月間の籠城を続け、激しい戦いの末に下された藩の決断でした。
 その前日、八重は鶴ヶ城三の丸東側(現在の市営プール)にあった雑物蔵の壁に、笄(こうがい)で和歌を刻んだと伝えられます。開城を前にした八重の万感の想い、覚悟が読み取れます。

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住所
会津若松市城東地内(会津総合運動公園内 会津水泳場)【地図

問い合わせ先
会津若松市観光公社 会津若松市追手町1-1
電話:0242-27-4005
会津若松市観光公社ホームページ 史跡若松城址 鶴ヶ城