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会社社長 遠藤義之

遠藤義之

“食”を通し人と人を繋いで創る新しい“ふるさと富岡”の再生

 2011年3月末、観陽亭のオーナーとの話し合いにより遠藤さんも含めて全従業員が解雇となりました。その後、ご家族を東京に避難させたまま、遠藤さんはいわき市にアパートを確保し、これまで「食」に携わってきた経験から、前オーナーの協力やさまざまな人の支援と後押しにより、その年の9月、いわき市沼ノ内に社員5名の宅配弁当専門会社、「株式会社観陽亭」を設立します。
 「震災後に原発の収束作業に取り掛かっている先輩や同級生、近所のおじさんなどから『お菓子でも何でもいいから持って来てくれないか』という連絡をたびたび頂く状況の中、今、自分が恩返しできることは何かと考えた時に思いついたのが “お弁当”でした。前オーナーの協力で物件も見つかり、声をかけて集まった前の従業員と5名で始めました。震災直後から富岡町でも実証実験的なモデル事業があり、私たちのお弁当事業も地元出身の事業として許可証を頂いて富岡町に入っていました。(警戒区域内での作業ということもあり)当時はマスクをして帽子を被り、手袋をして防護服を着てという状況でした。全く人がいない状況から復興に向けて国道6号線は第一原発へ向かう車がどんどん増えていき、富岡町も2013年3月25日に区域再編となり、通行規制が解除されました。今まで町境にあった帰還困難区域検問所が町の北側に移動され、沢山の人が入れるようになりました。」
 遠藤さんは、警戒区域を見たいと言ういわき市民や全国の自治体などからの声に応え、時々自らマイクロバスを運転して富岡町の様子を案内したり、避難をしている町民の思いを伝えるボランティア活動を続けました。そして、同じ活動を続けてきた友人らと現地視察事業を始めます。
 「これから富岡町でも本格的に除染が始まり、いろいろな動きが出てくると思われる状況の中で、地元富岡町商工会の有志で『ふたば商工株式会社』を2014年夏に設立しました。ある先輩が、いわき市の方を写真を撮る目的で富岡町へ連れて行った時に、その方が『これは撮れない。入れない地域とはこういうものか、やはり見なければ分からない』と話されていたと聞きました。それが契機となり、『見てもらい、知ってもらい、感じてもらう』ことで、これから共生していくための潤滑油になればと、地元富岡町のバス会社と提携して事業を始めました。今後は、ふる里富岡町の心を繋いでいくことが重要なことから、いろいろな人と心を繋ぐ“地元の人による語り部”という仕事も作れたらと考えています。」
 遠藤さんは2014年の夏に、公募町民約30人と若手を中心とした富岡町役場職員約30人が、現状の問題点や今後の町の方向性などについて意見を交わす「富岡町災害復興計画検討委員会」の公募委員の一人として選ばれました。
 ハード、ソフト両面から長短期的に進めなければならない施策について延べ100時間にわたって議論を重ね、現在は、町議会へ提案する素案作りも最終章へ来ていると話します。
 「国も県も町も、帰るか帰らないかの二者択一を基軸として進んで来た面がありましたが、富岡町民は47都道府県に散らばり、一時帰宅にもなかなか帰って来れない人、一度も帰って来ない人もいます。我々のように頻繁に行き来している者から見ても、2週間で町の様子がどんどん変わっています。富岡町から心が離れていってしまう人、避難先で新しい家を建て新しい生活を踏み出している人がいる中で、ふる里富岡をどう繋いでいくかが私達の課題だと思い、みんなで議論しながら町民の声を議会へ届けたいと思います。」
 遠藤さんは“震災から生き残った、生かされた人間”というその思いから、「いわき市でも『観陽亭』を社名に使っています。『食』を通して育ててもらった富岡町への恩返しをしていきたい。」と話しました。
 最後に、迷惑を掛けている家族の寂しい思いを解消することも当面の目標と、家族への思いを漏らしました。

取材後記

今回「ふくしま人」へご登場を頂いたのは、避難先のいわき市で仕出し弁当事業の会社を設立し、「食」を通して人と人を繋ぎ、ふる里の復興へ向けて活動する富岡町の会社社長、遠藤義之(えんどうよしゆき)さん。東日本大震災の津波から間一髪で逃れ、その後の原発事故で全町避難を余儀なくされながら、今だに帰れないご自宅を帰宅困難区域に持ち、ご自身を「震災から生き残った、生かされた人間」と自覚し、さまざまな問題を抱えながらも、新しい「ふるさと富岡」の復興へ向けて、市民の立場から積極的に提言し活動しています。