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須賀川絵のぼり吉野屋六代目 大野修司

大野修司

端午の宿場町に上がった田善が描いた鍾馗“須賀川絵のぼり”

 今から230年程前の江戸時代、白河藩主松平定信の御用絵師だった須賀川出身の洋画・銅版画家亜欧堂田善(あおうどう でんぜん)は、晩年、白河藩領須賀川に戻り、端午の節句に男子の健やかな成長を願い、地元民のために和紙や布地に中国唐の守り神「鍾馗(しょうき)」を描き、絵のぼり(=絵幟)にして庭先に立てたのが「須賀川絵のぼり」の始まりとされています。
 絵のぼりは7世紀に中国から伝わり、「村」や「戦の陣」のシンボルとして使われましたが、鯉が滝を登り切って龍になった中国の故事にちなんで、鯉の滝登りが立身出世の象徴となり、江戸時代以降、紙や布地に鯉の絵柄を描いた「鯉のぼりが」登場し、武家の庭先で端午の節句に風をはらませてなびく吹流しが人気を博しました。
 「須賀川絵のぼり」は二巾半(ふたはばはん=約90×600センチ)の縦長の布地に絵付けする絵のぼりで、田善から弟子の田騏(でんき)へ、そして初代大野松岳(しょうがく=善吉)へと継承された頃に須賀川の名物となり、端午の節句に男の子供を持つ近郷の家々で絵のぼりが立てられました。
 今回「ふくしま人」へご登場を頂いたのは、約230年に渡って「須賀川絵のぼり」を受け継ぐ吉野屋6代目大野青峯(せいほう=修司)さん。
 「元々吉野屋は呉服屋で、田善の孫弟子だった初代の大野松岳が絵のぼりを描き始め、2代目の治兵衛(じへい)、今から約100年前の3代目の一峰(いっぽう)の代に、ほぼ今の絵のぼりの基礎が作られたと言われています。戦前戦後の物資の貧しい時にも、4代目の忠助(ちゅうすけ)が苦労をされて継いで、戦後の5代目青峰(せいほう)が、中興の祖ではありませんが、色やデザインに近代感覚を盛り込んだ作品で時代にマッチし、ハワイや中国でも実演を行い、マスコミにもよく取り上げられて、日本で初めて絵のぼりで叙勲を授かりました。」
 元々絵のぼりは呉服屋や染物屋などが、5月の端午の節句の限られた時期だけ副業として営んだ「節気物(せっきもの)」と呼ばれた仕事で、大野さんの父青峰氏も注文のない時期は、他の仕事に就きながら苦労をして私達を育ててきたと話します。
 「高校・大学と、絵とは違う方向へ進んできましたが、20歳の大学生の頃に父が上京し、1年を通して絵のぼりを描いていけるようにするので、一緒にやっていこうと言われました。物ばかりがあって心が貧しい都会の生活に矛盾を感じていたこともあり、子供の頃から手伝っていた、伝統文化が息づく生活に戻るのもいいかなと思いました。」
 丁度、父青峰氏が画期的な室内用絵のぼりを開発した頃で、各地で実演をしながら、確かな販路の手応えに自信を得ての言葉だったと振り返り、卒業後帰省し、一旦就職後、23歳から父青峰氏へ師事し、以後35年間に渡り絵のぼりを描き続けてきて良かったと話します。