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須賀川絵のぼり吉野屋六代目 大野修司

大野修司

代を継いで絵のぼりに託す世情の平安と子供達への思い

 1993年(平成5年)、須賀川東地区の丘陵地に福島空港が開港し、「最も記憶に残る仕事」と大野さんが話す、開港プレイベントでの父青峰氏と描き上げた日本一の大きな鍾馗は、空港施設の天井から床に届くほどの幅3間(5.4メートル)長さ10間(18メートル)にもなる空港の安全を祈願した大作で、空港内に飾られた後、東京銀座ソニービルの外壁アートウォールにも展示され、上空のヘリコプターから撮った映像をテレビニュースで見た時には、とても感動したと大野さんは嬉しそうに話します。
 「そんな元気な父でしたが、10年前の平成14年に病で亡くなりました。毎年、こどもの日に福島県立博物館で「絵のぼり」の実演講習があり、一晩看病をして無事を確認してから会津へ向かいました。丁度これから仕上げの段階に入った時に訃報が届き、頭の中が真っ白になり、それからどうやって描いたのか憶えていないのですが、後で描き上がった絵を見ると、まるで父が乗り移ったかのような、気迫のある絵を描いていました。」
 それを機に一人で絵のぼりを描いていく自信がついたと大野さんは話し、下染めや下塗りで刷毛目(はけめ)が出ないように塗ること、そして勢いよく線を描くことなど、父青峰氏が話していた「下ごしらえ」が大事ということが、一人になって良く分かり、それまで続けてきて良かったと話します。
 「父の代に、右を向いた鍾馗様、左を向いた鍾馗様、正面を向いた鍾馗様の室内用絵のぼりが開発されましたが、お客様によって大きな絵のぼりから額装の小さなものまで、今はいろいろなリクエストを頂きます。一人一人のお客様の気持ちになり、ひとつひとつを丁寧に描きなさいと、よく父に言われました。お客様一人一人にとってのオンリーワンになる作品作りが座右の銘ですが、お客様の声を大事にしながら、常に新しい挑戦をしていきたいと思います。」
 「天明の飢饉」の時代に世情が不安になり、世の平安を願って田善が守り神「鍾馗」を描き、雲仙普賢岳が噴火した平成の時代に、父青峰氏と共に大野さんも同じ思いで日本一の「鍾馗」を描き上げ、その時々の時代によって個々に個性のある「鍾馗」を代々継承する重責をお尋ねすると、
 「その時その時の描き手により、鍾馗様の描き方も表情も違いますが、私は私としての鍾馗様を描いていきたいと思います。歌舞伎や相撲などの伝統文化は、世情が安定した市井の暮らしにゆとりが出た時に生まれてきました。情報や物が溢れ、一見ゆたかに見える現代は、子供達の世界にゆとりがあるとは思えません。「絵のぼり」の実演講習などを通して、ひとつひとつ手で描くことの楽しさを味わってもらい、伝統の素晴らしさや、それに親しむ心のゆとりを感じてほしいと思います。」
 2011年の震災と原発事故による大きな災禍により、大勢の子供達が避難やストレスの多い生活を強いられるなか、大野さんは伝統工芸を継承することの他に、子供達との絵付け体験教室を通して、地域の伝統である「須賀川絵のぼり」を伝えながら、子供達の心の平安や豊な情操を願って「伝統文化」の継承を続けています。

取材後記

今回、「ふくしま人」へご登場を頂いたのは、須賀川市の須賀川絵のぼり制作元吉野屋の六代目大野修司(=青峯)さん。1960年代に入り関東から型刷りのぼりが出回り、7軒あった須賀川の絵のぼり制作者も次々と転業し、今は吉野屋ただ1軒とのこと。福島県伝統的工芸品にも指定された貴重な技を継承しながら、子供達への絵付け体験教室を通して、手で描くことの楽しさ、伝統文化に触れることの素晴らしさを伝えながら、子供達の心のゆとりに繋がる活動を続けています。
須賀川絵のぼり制作元吉野屋:http://www.enobori.com/