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アナウンサー 浜中順子

浜中順子

福島に寄り添い“フクシマ”を伝える福島に育まれるアナウンサー

 先の東日本大震災から3年目を迎える2014年(平成26年)。震災直後、地震や津波による交通や通信インフラが大きな被害を受け、情報の伝達は放送とインターネットが重要な役割を果たし、とりわけテレビから初めて避難指示を知り、動き出した市町村のケースが数多く見られました。当時、テレビ報道の現場では通常番組を休止して報道特別番組が編成され、特に被災地にある放送局自体も被害を受けるなか、地震による大規模な停電から復旧する間も自家発電によって放送が続けられました。情報が錯綜するニュースの現場から適切な情報を放送に流し、余震が続くなかで後輩アナウンサーの想いを気遣いながら、困難な状況のもとで情報を待つ多くの人達のもとへニュースを送り続けたのが、今回「ふくしま人」へご登場頂いた福島テレビのアナウンサー、浜中順子(はまなかじゅんこ)さん。
 浜中さんは1992年(平成4年)に福島テレビに入社し、主に情報番組の司会を務め、現在はテレビに出る仕事だけではなく、報道部のアナウンス担当部長として後輩アナウンサーの指導にもあたっています。これまでの簡単なプロフィールをご紹介頂きながら、震災当時のニュースの現場と、新年を迎えた開局50周年の福島テレビの取り組みについてお話しをお聞きしました。
 「私は京都で生まれ、アナウンサーになりたいと親にお願いして東京の大学へ行き、アナウンサー受験で全国のアナウンサー試験を受けました。たまたま採用してくれたのが福島テレビで福島へやって来ました。福島へ来たのは大学時代に旅行で裏磐梯へ来た程度で、余り福島がどんなところかは分からず、アナウンサーという仕事ができるという想いで福島へやって来ました。福島へ来て、浜通り・中通り・会津地方という天気予報を見て、福島の地図の中に『浜・中』があり、私自身としては来るべくして来たと思い、この福島の景色と美味しい空気と、美味しいお米が待っていて、すぐに福島のファンになり、長くここで働いていければいいなと思いました。」
 浜中さんは京都で18年、東京で4年、福島で22年と、これまでの人生の半分を福島で過ごし、丁度福島の地でターニングポイントを迎えたことを感慨深げに話し、そのキャリアと共に報道部のアナウンス担当部長として後輩アナウンサーの指導を一任され、2011年に起こった震災時の困難な状況のなかで、懸命に職責を果たそうとする報道部アナウンサーの当時の様子を次のように話します。
 「最近はテレビに出る仕事だけではなく、アナウンサーの中で一番年長者になったこともあり、後輩を指導することも私の中の大きな仕事になっています。2010年(平成22年)に男性2人、女性2人の新人アナウンサーが入り、それぞれ性格も習熟度も違いますし、どういうふうに育てて行けばいいのか、いろいろと試行錯誤をしながら、もうこれでどんな番組にもこの4人を自信を持って出せると思っていた3月11日、あの地震がありました。当日、私は東京で会議があり、お台場のホテルの会議室で非常に強い揺れを感じ、正に東京が地震の震源地で、このニュースを伝えなければとリポートしながら携帯で動画を撮影していると、震源地が宮城県沖で東北が揺れていることを知り、震度7という声も聞こえてきました。東北地方のテレビ局の責任者は地元に帰ろうと東京駅へ向かいましたが、新幹線は動かず、いなければいけない時に福島にいられなかったことは、私のなかではとても悔しく、本当に申しわけないことだと思っています。」
 浜中さんは、その場にいられない歯がゆさを感じながら、高速道路と途中から一般道路を使って車で移動し、『あの後輩達ならしっかりと情報を伝えるべく報道に携わり、ニュースを伝えてくれている』と思いながら約24時間後に福島へ戻り、激しい揺れの中で報道し続ける苦しさや困難さを、後輩や局員らの顔を見て強く感じたと話します。
 「私が帰ってきた途端に、『帰って来て下さったんですね』と泣き出してしまう後輩もいて、本当に大変な24時間を過ごしたんだなと頭が下がる思いでした。ただそこで終わりではなくそこからが始まりで、日々状況が見えないなかで何を成していくべきかを考えながら報道に携わっていました。福島には原発があり、原発から白い煙が上がっているその状況は誰も想定していない。想定していないという言葉で逃げてしまってはいけませんが、原発があると分かっている私達の知識不足を感じざるを得ない状況でした。そんななかでも分かることは素早く正確に伝えること、そして決して私達はうろたえないことを報道部長から言われ、うろたえてはいけないことを胸に、みなさんに情報をお出しするために日々過ごしていました。」
 その場にある情報をそのまま放送に乗せる状況のなかで、取材先へ弁当を運び、給水場などへ電話取材をしたりと、経験が乏しいために本来のアナウンサーとして任せてもらえない新人アナウンサーの胸中や、毎日が泣いてしまうような揺れや不安のなかにいる後輩らを想い、浜中さんは親御さんが心配しているのであれば一度地元へ帰ることを勧めると、『ここでやるべきことが有ります』と応える後輩達に、自分達もやっているという実感を持たせたいと、避難所での朗読会を始めます。
 「少し時間のある一年生のアナウンサーを誘い、福島市内の避難所に『もしよろしかったら今から絵本を読みます』と声を掛けると20人位の方が集まってくださり、そこで楽しい絵本を読んだりしながら時を過ごすと、『震災後、こんなに笑えたのは久し振りでした』と声を掛けてくださり、いろいろな表現をして読んでいる後輩達も凄く楽しそうな充実した顔をし、『私達、この福島で頑張れる気がします』と帰りのタクシーの中で後輩達が言ってくれました。そう考えると、自分の本来すべき仕事がしっかり出来た時に、何か前向きに思えるのかなと感じたことでもあり、苦しい想いをしながら、迷いながら、不安も有ったかもしれませんが、私達はしっかり福島で伝えて行くんだという想いをもう一度持った、そんな最初の1ヶ月だったと思います。」
 後輩アナウンサーのそれぞれの想いを気遣いながら、困難な状況のもとで情報を待つ多くの人達へ対応しようと、自らが被災地の当事者であるローカルテレビ局が果たしたニュースの現場を引き続きお聞きしました。