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杜氏 林ゆり

林ゆり

伝統と技を継ぐ会津の老舗酒蔵で活きる女性杜氏の感性

 秋の会津盆地の郊外に広がる豊かな田園地帯では、稲穂が「こがね色」に輝く収穫の時期を迎え、あちらこちらで稲刈りのコンバインが活躍する姿が見られ、9月下旬から10月にかけて収穫の最盛期を迎えます。この時季「酒どころ会津」の酒蔵では、主に関東圏への試飲促売の営業活動と同時に、11月から始まる今シーズンの酒造りに向けて、杜氏や蔵人らによって蔵の掃除や設備、道具類のメンテナンスが進められています。
 古くからの土蔵造りの洋館や蔵が建ち並び、ノスタルジックな大正浪漫の雰囲気が漂う七日町通りは、かつての藩政時代に日光、越後、米沢街道の主要な道路が通る要所で、城下の西の玄関口として問屋や旅籠、料理屋が軒を連ね、7日毎に市が立つ会津一の繁華街として、また城下の重要な通りとして賑わい、今も会津を訪れる観光客に人気の通りとなっています。
 1794年(寛政6年)、七日町通りに面して会津藩御用達頭取を務めた永寶屋(えいほうや)一族の林家から分家し、屋号「マルエイ※永寶屋」として酒蔵を創業したのが、今回「ふくしま人」へご登場を頂いた、会津若松市の林ゆりさんが酒造りをする鶴乃江酒造。明治初期に会津の象徴、鶴ヶ城と猪苗代湖を表わす「鶴乃江」の銘柄を発売し、1977年(昭和52年)、会津藩最後の藩主保科正之(ほしなまさゆき・徳川家光の弟)の官位「従三位会津中将肥後守(じゅさんみあいづちゅうじょうひごのかみ)」に因んだ銘柄「会津中将」を発売。代々当主は平八郎(へいはちろう)を襲名し、ゆりさんのお父様が現在7代目を継承しています。
 関東圏への試飲促売の営業から久し振りに会津へ戻り、また明日から関東圏への営業へと向かう多忙なゆりさんを鶴乃江酒造にお訪ねし、杜氏を職業として選ばれた経緯からお話しをお聞きしました。
 「私は、この蔵の7代目の長女として生まれましたが、小さい頃から自分が酒造りをする、自分が跡を取るという意識は全くありませんでした。高校生の時に前の杜氏さんが仕込みの最中に倒れ、仕込み温度を何度にするかなどは杜氏さんにしか分からないことで、専務であった父が東京農大の醸造学科を出ており、そこで培ったものと教科書を片手に、その日の仕込みをなんとか切り抜けたという話しを聞いていました。『農大へ行けばお酒造りが出来るんだ』と漠然と思っていましたが、実際に自分の進路を決める段階で、いざという時に知識があれば自分の家の役に立てると思い、まず農大の醸造学科へ進学したのが私の進路の一歩です。」
 ゆりさんは大学在学中に新潟の酒蔵へ2週間学外実習で訪れ、その酒蔵で女性初の酒造一級技能士を取得した、日本初の女性杜氏がイキイキと働く様子に感動を受け、大学で学んだ知識を自分が生まれ育った酒蔵で活かしたいと、1996年(平成8年)、卒業と同時に鶴乃江酒造へ就職します。
 「その頃は跡を取る意識は全くなくて、親孝行のつもりで、自分も酒造りをしたい気持ちでこの蔵へ入りました。ご縁があって、入った1年目に自分でお酒を仕込む大役を与えて頂き、既に母が杜氏の資格を取り、酒蔵へ入って現場の皆さんと働いていましたので、まして自分の家ですし、女性の私が蔵へ入ることは全く抵抗はありませんでした。」
 ゆりさんは大学卒業後、杜氏の資格を持つお母様の恵子さんや、この道40年以上の鶴乃江酒造ベテラン杜氏、横山啓一さんら蔵人と共に作り上げた純米大吟醸酒「ゆり」を発売。同時に福島県清酒アカデミー職業能力開発校で3年間学び、1999年(平成11年)、卒業と同時に酒造士認定証を取得。晴れて杜氏として本格的に酒造りの道へと進み、若手の女性杜氏として様々なメディアに取り上げられ、毎年冬は酒を仕込み、新酒が出来上がる新春から首都圏などへの試飲即売会営業と、1年を通して多忙な毎日を送られています。

※マルエイ:永寶屋の前に「永」を丸で囲った「印」が入り、本家「永寶屋」と区別されていた。