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通信偉人伝

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ペリー ―黒船とともに、“電信”は日本へとやってきた

1853年、ペリーが率いた4隻の「黒船」が浦賀沖にやってきた。鎖国政策をとっていた日本に対して開国を求めるとともに、多くの品物を幕府に献上したが、その中には電信機も含まれていた。これが日本における電信時代の幕開けとなった。

ペリーから贈られた電信機で日本の電信が始まる

図 エンボッシング・モールス電信機
ペリーが幕府に贈った「エンボッシング・モールス電信機」。片側に巻かれた紙テープが中央を通り、紙テープに凸凹を付けることにより受信したモールス信号を記録する。

日本で初めて電信による通信が成功したのは、ペリー(マシュー・カルブレイス・ペリー)が2度目に来日した1854年。当時のアメリカ大統領ミラード・フィルモアから幕府に贈られた「エンボッシング・モールス電信機」によるものだ。
このエンボッシング・モールス電信機は、送信側でモールス信号を打つと、受信側の紙テープにエンボス(凹凸)で記録されるという仕組み。以前のモールス電信機は、受信した信号を人間が記録していたが、エンボッシング・モールス電信機ではこれが自動で行えるようになった。
日本での公開実験は、約1.6kmの電線を敷設して横浜で実施。最初の公開実験では、「YEDO」(江戸)と「YOKOHAMA」(横浜)という文字が送信された。公開実験は、ペリーが幕府に贈った4分の1サイズの蒸気機関車とともに行われ、多くの人が集まった。日本の電信史に名を残すペリーのエンボッシング・モールス電信機は、1997年に国の重要文化財に指定され、現在は逓信総合博物館の所蔵である。

明治維新とともに始まった日本の電信

図 ブレゲ指字電信機
「ブレゲ指字電信機」。左が受信機で、右が送信機。送信したい文字と針を合わせると、受信側でも同じ文字を指すという仕組みになっている。

1854年のペリーによる実験から14年もの間、日本において電信の歴史にほとんど動きはなかった。しかし明治維新後、明治政府は電信の重要性を認識。1869年にイギリスから通信技師を招いて、横浜燈台役所と横浜裁判所に日本で初めての電信回線を開通させた。ここではモールス信号ではなく、「ブレゲ指字電信機」と呼ばれる電信機を採用した。
ブレゲ指字電信機とは、時計のような形をした電信機で、送信したい文字に針を合わせると、受信側でも同じ文字を指してメッセージを送信するという仕組みだ。モールス信号は文字と信号を覚える必要があったが、ブレゲ指字電信機はその必要がなく誰でも扱うことができた。しかし、ブレゲ指字電信機には、1分間に5〜6文字程度しか送れない、通信線の敷設に多額な費用がかかるなどの欠点があった。そのため、多くの文字を送ることができ、通信線の敷設費用が安いモールス信号へと置き換わっていった。
その後の日本の電信の発展はめざましく、1871年にはロシア極東部のウラジオストクから長崎に陸揚げされた海底ケーブルを用いた国際電信が開通した。この国際回線は、シベリア経由でヨーロッパまでつながっており、大西洋を渡り北米との電信も可能とした。
また、東京と横浜、大阪と神戸の2つだけだった国内回線も急ピッチで工事が進められ、1873年には東京と長崎を結ぶ回線が開通。東京と外国との電信が可能となった。その後も、東京から東北、北海道方面にも回線が敷設されており、1875年には札幌まで開通。これにより、北海道から東京を経て、九州までつながる電信網ができあがった。
さらに1880年頃には、日本の大都市を結ぶ電信網が完成。1879年の記録では、有料の「官報」の取り扱いは9万通、無料の「事務報」などが8万通だったのに対して、企業や個人が利用する「私報」は148万通にも達した。1890年頃には、全国の県庁所在地を網羅するほどに電信網は広がった。

電信あれば即日に世界の消息を聞くべし

全国に広がっていった電信網に関して、福沢諭吉は1885年に「電信あれば即日に世界の消息を聞くべし」という言葉を残している。当時は外国から多くの物資や文化が日本に輸入され、変革の時代を迎えていた。これら情報や物資が集まるのは東京だけであり、ほかの地域にいると時代に取り残されてしまう考えがあった。しかし、福沢諭吉は、「電信があれば、世界中の情報がすぐに手に入る」として、これを否定したというわけだ。
なお、電信が始まった3年後の1872年、新橋と横浜の間で日本で初めての鉄道が開通し、電信と同じように日本中に広がっていった。文明開化でもたらされた電信は、鉄道とともに近代日本の発展に大きく寄与したのだ。

今回のキーワード

ダニエル電池
:アレッサンドロ・ボルタが発明した電池。電信技術の草創期は、まだ発電機が発明されていなかったため、電源は電池に頼っていた。
福沢諭吉
:「学問のすすめ」などを執筆した武士/学者。1862年には幕府遺欧使節団としてヨーロッパに派遣された。1866年には、これをまとめた『西洋事情』を発行。電信技術について「其神速なること千万里と雖ども一瞬に達す」と記している。
次回予告
石井忠亮 ―日本で初めて電話が開通した日
日本ではどのように電話が普及していったのだろうか。日本国営電話事業の創始者・石井忠亮を中心に、日本の電話事業の成り立ちを追いかける。

次回予告イメージ 本

参考資料:
有斐閣 『情報・通信の社会史-近代日本の情報化と市場化 (生活と技術の日本近代史) 』
小学館 『日本大百科全書』
国指定文化財等データベース
筆者プロフィール
安達崇徳(あだちたかのり)
フリーライター。エンジニア時代は、LinuxやRubyなどを用いて業務システムを構築。IT系雑誌に転職してからは、ブロードバンドを普及させようという思いで、ISPの料金表やインターネット接続図の編集を担当した。Webニュースに異動してからも、Wi-Fi、3G、LTE、WiMAXなど、移動や固定にとらわれずネットワークの市場や技術に関して動向を追い、今に至っている。

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