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伝統こけし制作工房三代目 佐藤英之

佐藤英之

“群馬の善意”へ伝統こけしに託す感謝と復興への誓い

 「木地処さとう」工房は、いわき駅から直線で東へ約2.5kmの距離にあり、2011年(平成23年)3月に起きた東日本大震災では、家財やこけしが倒れ、建物の壁にひびが入る程度で済んだものの、間近に流れる夏井川を遡上する津波の不安から、英之さんらは地震直後すぐに高台にある中学校へ避難したとのこと。ただその後に起こった原発事故により、英之さんらはその後約1年間に渡って避難生活を送ることになります。
 「原発事故が起こった直後に、母の実家がある会津若松市の体育館へ避難しました。私達は10人以上で避難をしていましたが、1週間も避難所に居ると、そろそろ何とかしないといけないと思うようになり、そんな中、高校時代の友人から『群馬に別荘を持っている人が貸したいと言っているので検討して欲しい』と連絡がありました。私達は藁にもすがる思いで行く宛もなかったので、群馬県がどんな所か知りませんでしたが、とにかく行ってみようと家族で群馬へ向かいました。」
 英之さん一家の移転先となったのは、群馬県渋川市赤城山の標高約600mにある山荘で、そこからは榛名富士、子持山、遠くは北アルプスまで見渡せる高台にあり、しばらくは手持ちのこけしを販売することを考えていた英之さんらは、その後地元の創作こけし同業者との出会いなどがあり、避難先の群馬でこけし作りを再開し、群馬とのご縁を感じたと話します。
 「群馬に移って少し落ち着いてみると、何か仕事をしなければいけないと思いました。こけしの仕事はいろんな条件が揃わないと出来ないのですが、或るお客様から近くにこけし屋さんが有ると知らされ、歓迎されるかは分かりませんでしたが、とりあえず訪ねてみました。藤川工芸という創作こけしの工房で、とても温かく迎えて頂き、『何でも使って欲しい』と言って頂き、何か出来るんじゃないかと少し希望が湧きました。一旦いわき市に戻って道具を運び、一番大事なのはこけしに使う材料の木材で、いい条件の材料を手に入れるのは平常時でも大変難しいのですが、その材料も充分に供給して頂くことが出来ました。」
 こけしの材料となる木材は、白く木目の見えにくい群馬県産の高品質な“みずき”を使用し、山荘裏の物置小屋の内部を工房に変え、庭の古い藤棚を利用して仮設の工房を建て、英之さんらは震災前と変わらない弥治郎系伝統こけしを群馬の地で作り始め、復興の第一歩を踏み出します。終戦間際から1955年(昭和30年)頃にかけ、いわき市を一時離れた祖父・誠氏の群馬県前橋市でのこけし工房時代を知る人との出会いもあり、1年間に渡った群馬での移転期間のご縁も運命と英之さんは感慨深く話します。
 「いわきと変わらないこけしを群馬でも作れるようになりましたが、やっぱり私達の本店は福島に在り、自分達は福島の人間ですから、もう一度いわきへ帰って一からやり直そうと1年後の3月末に福島へ戻りました。震災を機に群馬へ引っ越すことになり、知らない土地で沢山の方々に大事にして支えて頂き、それがなければ1年を過ごすことは出来なかったと思います。直接の行動や言葉は届かなくても、沢山の方々が応援して思っていて下さることを忘れずに生きて行きたいと思います。」
 約300年前に子供に与えるオモチャとして東北で生まれたこけしは、明治の海外からのオモチャの影響で廃れそうになり、鑑賞用や美術工芸品として復活すると、戦争によって無くなりそうになりながらも生き抜き、様々なピンチを経ていろいろな形で変化を遂げてきました。「こけしは静かなもの」と話す英之さんは、震災の災禍から少しずつ復興を果たしながら、本来の本当のこけしを目指したいと結びました。

取材後記

今回、「ふくしま人」へご登場を頂いたのは、いわき市の伝統こけし制作「木地処さとう」3代目、佐藤英之(さとうひでゆき)さん。ご両親と英之さんご兄弟の4人が、宮城県白石市の弥治郎系伝統こけしを伝承するこけし工人ご一家。「木地処さとう」の人気商品「こけし印鑑」や「細工物」の他、「時間・手間・工人の思い」を込めて作り上げた素朴なこけしからは、受け継がれる伝統と家族の絆が伝わります。
◎伝統こけし制作「木地処さとう」:http://www.kijidaruma.com/