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木工製品製造 佐藤芳賢

佐藤芳賢

会津武士の矜持で動乱の幕末から激動の時代を生きたハンサムウーマン

 NHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公・新島八重(にいじまやえ)が使用したスペンサー銃は、1860年にアメリカで発明されたばかりの最新式の弾倉装填式歩兵銃で、1865年に終結したアメリカ南北戦争後に余剰となり、普仏戦争のフランスや幕末の日本へ輸出されたもので、重さ約4kg・長さ94cm・射程820mもある7連発式ライフル銃でした。
 「知人が古式銃として購入した本物のスペンサー銃をしばらく貸して貰い、約70%に縮小した“木製ゴム銃”を作りました。新島八重という人は、地元の会津でも初めから脚光を浴びて知られていた人ではなく、今回の大河ドラマに取上げられて名前を知ったという方が大勢います。兄の山本覚馬と父の権八が砲術指南役だったことで強く影響を受け、女性でありながら、戊辰戦争(1868年/慶応4年/明治元年)でスペンサー銃を持って戦ったことは、女性らしい人というより、勝気な性格の人だったと思います。次に始まる新しい大河ドラマで、幕末から明治を生き抜いた会津の女性として、是非、全国から脚光を浴びてほしいと思います。」
 1862年(文久2年)、藩主・松平容保(まつだいらかたもり)の京都守護職入京時に同行した兄・覚馬は、鳥羽・伏見の戦いで薩摩藩に捕われて京に残り、幽閉中、将来を見据えた先見性に富む「管見※1」を新政府に宛て、明治新政府政策の骨格に繋がると高く評価され、釈放後の1870年(明治3年)、京都府の顧問格に就任していました。
 翌1871年(明治4年)、戊辰戦争後に赦免された八重は、戦死したものと思っていた兄・覚馬が生きていることを知り、母らと共に京都の覚馬を頼って上京し、覚馬らが勧めていた、華族や士族の娘に英語や手芸などを教える女学校“女紅場(にょこうば・後の府立第一高女)”の権舎長・教道試補となり、同じ頃、覚馬の元に出入りしていた、留学先のアメリカから帰国していた新島襄(にいじまじょう)と知り合い、1875年(明治8年)に婚約します。
 新島は1843年(天保14年)安中藩江戸屋敷で生まれ、国禁を犯して21歳で渡米し、ボストンのハーディー夫妻の援助でフィリップス・アカデミーへ入学後に洗礼を受け、アーモスト・カレッジを卒業後、アンドーヴァー神学校で神学を学びました。神学校在学中に岩倉遣欧使節団に随行し、アメリカと欧州8ヶ国の訪問を通じ、キリスト教信仰とデモクラシーを体得した独立自尊が欧米文明をつくり、支えていると確信します。
 10年の海外生活を終え、1874年(明治7年)に帰国した新島は、翌年、京都で宣教師を通してキリスト教を学んでいた覚馬を紹介され、連名で「私学開業願」を京都府へ提出し、同志社英学校を設立します。翌年、洗礼を受けた八重と、京都府初の日本人同士のキリスト教式結婚式を挙げ、八重は同志社分校女紅場(後の同志社女学校)開校時に礼法の教員となります。欧米の生活スタイルと文化に馴れ親しんだ襄は、男勝りの性格の八重を“ハンサムな生き方”と評し、八重は英語を学んで洋服を着こなし、帽子を被って靴を履き、男女平等を説く明治の新しい女性教育者として活躍します。
 伝道と大学設立運動に奔走し、志なかばの46歳の若さで永眠した襄との短い結婚生活後も、八重は1890年(明治23年)に日本赤十字社の正社員として、日清・日露戦争の篤志(とくし)看護婦※2として従軍し、広島・大阪の陸軍予備病院(野戦病院)で傷病兵の看護にあたりました。
 本来、軍人に与えられる記章を与えられ、1896年(明治29年)に勲七等宝冠章、1906年(明治39年)には勲六等宝冠章が授与され、幕末から明治の激動期を生き抜き、東北・会津で育まれた不屈のプライドで、生涯自分の可能性に挑み続けた八重は、1932年(昭和7年)6月、87歳の波乱の人生を閉じました。

※1管見(かんけん):自分の知識・見解・意見を遜って表す語。
※2篤志看護婦(とくしかんごふ):自ら志願して戦地へ赴き、 負傷者の手当てに従事した看護婦。

取材後記

今回、「ふくしま人」へご登場を頂いたのは、会津若松市の佐藤芳賢さん。明治の創業から4代に渡り、常に木製品に拘った製品作りを続けてこられました。NHK大河ドラマに合わせ、2009年(平成21年)から作り始めた“木製ゴム銃”が、いまテレビ・新聞などで話題を集めています。折しも2013年から始まる大河ドラマは、会津若松市が舞台の「八重の桜」。新島八重が手にしたスペンサー銃を今回も“木製ゴム銃”で復刻。“照準”は新たな会津土産の座と自信を覗かせていました。
◎株式会社共榮:http://www.kyoei.ecweb.jp