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第10代福島市長 吉田修一

北裡界隈

先人が翔けた記憶の四辻と立ち止まって癒した面影の路地と

「電話番号簿から観える街」に登場する町名は、旧奥州街道(旧国道4号線)が荒川に架かる信夫橋を渡った一丁目から、柳町、荒町、中町、本町、大町などの順に、丁度街道を街の中心部へ進み入るように紹介されており、そのいずれの街角の風景にも、幼心に吉田さんの網膜に映った、活気に溢れた当時の福島の情景が綴られています。
1881年(明治14年)、福島の街の大半を焼き尽くした甚兵衛火事が起こった柳町から始まり、生糸・蚕糸、米穀などの阿武隈川舟運の時代から続く貯蔵倉が並び、その遺構が今も残る荒町を通り、明治に設立された日本救世軍福島小隊や昭和7年の電話番号簿から記載された読売新聞福島支局、木戸孝允や竹久夢二が宿泊した老舗旅館藤金のある中町を抜けて、いまの平和通りが造られる以前の町並みは、街のランドマーク「福島ビルヂィング(通称福ビル)」が建つ本町の中心部へと続いていました。
1927年(昭和2年)、鉄筋コンクリート3階建ての福島ビルヂィングが、本町の一角にその偉容を現す時代背景を、吉田さんは「“福ビル”を建てた人びと」の章で詳細に書かれています。時代の趨勢は従来の商業活動に工業関係者が加り、商工業界一体の活躍が日本経済発展の原動力という認識が高まり、県内産業の近代化に伴って、精密機械や度量衝器、鋳物、食料品などの新しい工業製品を陳列する施設の整備、また街の中心部に新しい福島商工会議所の設置を望む商工業界や市民からの声、そして建物や設備、蔵書類が貧弱で、利用者や文化人から痛烈な批判を浴びていた市立図書館の整備など、上下水道整備事業や松齢橋鉄橋架け替え工事などによって逼迫する市財政のなかで、知略を巡らした、窮余の一策が投じられることになります。
福ビル前の電車通りに沿って大町のメインストリートを進んで上町から北町に入ると、福島稲荷神社周辺の宮町、仲間町、北町などに点在していた、割烹や待合、芸妓屋などの花街の風情が漂い、お稲荷様の参道の両側には、御影石で造られた一対の狛犬が供えられ、台座の裏側には割烹組合16軒、待合組合13軒、芸妓組合27軒の三業組合奉納者と発起人の名が連なり、無病息災、商売繁盛を祈願して1938年(昭和13年)奉納の記述が刻まれています。
明治に建てられた仲間町の「新開座」劇場では、歌舞伎や大衆演劇などの公演が盛んに開かれ、あたりには役者名の鮮やかな幟が並んで、さながらコンパクトにした浅草六区の賑わいを見せていました。
古い電話番号簿の魔性に憑かれたように、街並探索の旅に出て5年の時が流れ、吉田さんはその途中「電話番号簿から観える街」を上梓(じょうし)されます。「深い藪の茂みに踏み込んでも、根気よく先が見えるまで歩くしかない」と、いまもまだ旅の途中。本町の辻から柳越しに福ビルの偉容を眺めているのか、お稲荷様の境内から北裡の路地に入って行ったのか、吉田さんは今日も深い深い藪の茂みの回廊へと踏み入っています。

取材後記

今回から始まった“福島の空”の新企画「ふくしま人」。その記念すべき第一回目に登場頂いたのは、第10代前福島市長吉田修一さん。明るく快活に笑う表情が豊かで屈託がありません。きっと吉田さんの元で仕事をされた方は、大いに仕事を楽しみ、やりがいを感じたに違いない、と想像してしまうほど人を魅了します。退任の翌年に発足した「昭和初期ふくしま町並み研究会」で出会った、古い「福島郵便局電話番号簿」を基礎資料に、5年の調査の末に上梓(じょうし)された「電話番号簿から観える街」。本書と今回の吉田さんのインタビューから、昭和初期〜16年当時の活気に溢れた福島を感じ取ってください。吉田さんは今、大正から昭和に移る頃を背景にした、「大正時代の窓から観える街」を執筆中とのこと。また深い藪の茂みに踏み込んでおられるようです。
撮影協力:カフェ・洋食「風の谷」福島県福島市清水町北谷地16-1 電話 024-548-0786