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会津若松市 新島八重を育んだ会津

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「山鹿素行生誕の地」碑

山鹿素行生誕の地碑の写真後に高名な学者となった山鹿素行は6歳まで会津で育っている

 八重が育まれた時代から約220年遡り、藩主は蒲生忠郷(氏郷の孫・秀 行の子)の時代にも、この辺一帯は武家屋敷がたくさん並んでいたところです。
 元和8年(1622年8月16日)この地、町野左近の邸内に山鹿素行は生まれました。
 山鹿流の兵学を教え、いわゆる「赤穂四十七士」の生みの親ともなったといわれ有名な山鹿素行です。
 そばに立てられた説明によれば、素行は通称を甚五左ヱ門といい、父・貞以(さだもち)が伊勢亀山から会津に来た年に生まれたといわれています。
 「六歳のとき、父に従って江戸に出て九歳で林羅山の門に入り、儒学・国学・神道・兵学の奥義をきわめ、特に兵学においては山鹿流の一流をなすにいたり、その名声は天下にとどろきました。」とあります。
 しかしその後の1665年(寛文5年)、素行が43歳の年の10月に江戸で「聖教要録(せいきょう要録)」3巻を出版しました。その時執権を務めている会津藩主の保科正之は、内容が朱子学を批判しているとして、山鹿素行を朱子学批判の罪で配流処分にしたといういきさつもあります。

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