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電話 イメージ

通信偉人伝

FILE6

石井忠亮 ―日本で初めて電話が開通した日

電信では、世界から後れをとってしまった日本だが、電話の夜明けは早かった。ベルやグレイが世界で初めて電話機を発明した1876年のその翌年、日本の工部省はアメリカからベルの電話機を輸入し通話試験を成功させたのだ。

ベルの発明の翌年に行われた、日本初の電話実験

図 ガワーベル電話機
ガワーベル電話機。ベルの電話機に、通話回路と炭素棒の接触点を多くするなどの改良を加え、安定性を高めている。

日本初の電話実験は、赤坂溜池葵町の工部省と赤坂御所の宮内省の2kmを結んで実施。電信局長が「宮内省之に答ふることも恰も膝も交へて語るが如し」と新聞記事を読んだのが日本で最初の通話であった。
電話の実験を成功させた工部省は、1878年6月、実用化を目指し早速電話を製造したが、オリジナルのベルの電話と同じくその音質は悪かった。「幽霊の音声を聞くようだ」と記した文献もあるほどだ。
これを憂慮した当局は、ベルの電話機に改良を加えたイギリスの「ガワーベル電話機」を輸入。ガワーベル電話機は、音声がはっきり聞こえ、通話が安定していたことから、これを模倣する形で電話機の製造に着手できるようになった。

官庁が中心だった電話が民間にも広がる

図 専用電話のイメージ
専用電話のイメージ。専用電話は、電話機が一対一でつながっている。そのため、1台の電話で1か所としか通話ができない。2か所と通話したければ2台、3か所なら3台の電話機が必要だった。
図 交換機のイメージ
交換機のイメージ。複数の電話機がひとつの交換機に接続。交換機が要求に応じて2台の電話を接続することで、通話ができるようになる。専用電話とは異なり、通話先の数に合わせて電話を増やす必要はない。

このようにして始まった日本の電話事業だが、肝心の電話が設置されたのは工部省と宮内省のほか、内務省や警察署、大企業、鉄道、港、鉱山、大企業などが中心だった。また、交換機が設置されていない専用電話であるため、お互いが自由に通話できなかった。
そのような状況の中、工部省電信局長であった石井忠亮(いしい ただあきら)は、1883年に電信用の海底ケーブルを敷設する交渉のため中国・上海に出張した。石井はここで、民間でも電話を利用していることに驚きを覚えた。
石井は帰国後、日本でも電話サービスを開始するべく政府に働きかけたが、政府は財政の引き締めもあり、優先順位の高い事業と考えていなかったようだ。政府内外では、民営でやるべきという意見も出てきたが、1889年にようやく「電話サービスは官営で行うべき」と決定が下された。石井が政府に働きかけてから6年もの月日が経っていた。
この決定により逓信省(工部省が解体されて設立された組織で、電信電話公社やNTTの前身)は、遠距離通話の実験や電話の宣伝のために1889年に東京と熱海の間に電話回線を敷設し一般の通話を取り扱った。なお東京と熱海の公開実験ではガワーベル電話機が採用された。このガワーベル電話機は、その後の電話サービスでも利用された。
翌年の1890年4月には、東京と横浜市内と両市を結ぶ電話サービスを開始。当初の加入者は、東京は237契約、横浜は45契約と非常に少なかったが、サービスを開始するとともに徐々に加入希望者が増えていった。また、1893年には大阪市と神戸市内でも同様に始まり、長崎、下関、福岡、広島などの都市にも電話網は広がった。

電話網の戦後復旧のため電電公社が設立

電話のメリットが知られ始めたり、多くの会社が設立され産業の近代化が進んだ結果、1913年には電話の契約数は20万を突破した。しかし大きな課題があった。工事が申し込みに追いつかなかったのだ。1912年には、都市部だけでも11万もの申し込みが未開通。さらに、1928年には東京から大阪に電話をかけるために53分、東京から静岡は4時間もの時間を要したとの記録がある。増大する需要に交換手や設備が足りなかったことが原因だ。
このような混乱があったものの、戦前は、政治家や財界人、銀行、商社、新聞社などを中心に電話が広がっていった。1943年には108万加入まで加入者は増加した。
しかし、電話網も第二次世界大戦により大きな被害を受けた。電話の加入者も終戦時には46万人と、最盛時の半数以下まで減少している。さらに、戦時中に設備投資ができなかったため、都市部を中心に交換局の老朽化が進んでいた。本格的な電話事業の復興には、老朽化した交換局の更新や戦争により破壊された交換局や回線の復旧、エリアの拡大、市外通話の充実などが必要だった。
逓信省から名称を変更した電気通信省は、荒廃した電話事業の復興計画を策定。しかし、国家予算の削減のため政府は思い切った投資ができない状況だった。さらに、1950年代に入ると電話の申し込みが増え、工事が追いつかない状況がよりいっそう深刻となった。そのため1950年3月、内閣総理大臣の諮問により設立された電信電話復興審議会は「最大限に民営的長所を採入れた公共企業体を設立すること」として、1952年8月、「日本電信電話公社」(電電公社)を発足した。
電気通信相が電話サービスを提供していた時代は、国で決められた予算の枠内でしか設備投資が行えなかったが、公社になることで電話サービスにより得た利益を設備投資に充てられるようになった。また、電電公社は「電信電話債券」を発行し資金を調達。この電信電話債券は、電話加入権とは異なるもので、電話サービスの申込時に購入する必要があったほか、公募されていたため自由に売買できた。
しかし、公社化したからといってすぐに資金が集まるわけではない。そこで電電公社は、1952年、まずは、収益性の高い都市部の法人契約を優先的に開通させ、次に地方都市や過疎地に展開する方針を固め1953年に着手。こうした取り組みが実り、1960年代にはようやく地方都市や過疎地でも電話が見られるようになった。

今回のキーワード

ガワーベル電話機
:アメリカの技術者であるフレデリック・ガワーが、ベルの技術をもとに改良を加えた電話機。日本で初めての電話サービスで使用された。
石井忠亮
:逓信省電信局長などを歴任した国家公務員。日本における電話サービスの創始者。政府に電話サービスの必要性を訴えたが、電話サービスが始まる前の1887年に元老院議官に抜擢され、同時に逓信省電信局長は退任した。
参考資料:
日本経済評論社 『近代日本の社会と交通5 通信と地域社会』
小学館 『日本大百科全書』『デジタル大辞泉』
「NTT技術史料館:NTT History Center of Technologies」Webサイト
筆者プロフィール
安達崇徳(あだちたかのり)
フリーライター。エンジニア時代は、LinuxやRubyなどを用いて業務システムを構築。IT系雑誌に転職してからは、ブロードバンドを普及させようという思いで、ISPの料金表やインターネット接続図の編集を担当した。Webニュースに異動してからも、Wi-Fi、3G、LTE、WiMAXなど、移動や固定にとらわれずネットワークの市場や技術に関して動向を追い、今に至っている。

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